木戸じゅん。

猫のように身軽に生きる

【メンタル】他人のくだらぬ助言に耳を傾けるな

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突然だが、先に断っておこう。

もしもこの記事で語っていることがくだらないと思ったのなら、タイトル通りにブラウザバックすることをおススメする。

なぜなら、私が語る内容がくだらないものではないという保証はどこにもないからだ。

 

この記事の趣旨は、「他人のアドバイスを切り捨てる」ことである。

他人は、あなたのためを思って、といういかにも親切な風を装ってあれこれと助言してくる。

しかし、果たしてそれは聞き入れるべきアドバイスであるのか、疑いの目を持つことを忘れてはならない。

たとえそれが仕事の先輩や、肉親からのものであったとしても。

 

では、なぜアドバイスに対して懐疑的でなければならないのか。

まず一つは、それが他人にとって正解に近いものであったとしても、自分自身に活かせるものであるとは限らないから。

二つ目は、他人が自身の考えを押し付けようとしているだけである可能性があるからだ。

 

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直近で自分が体験したことだが、それは仕事関係の飲み会でのことだ。

その業界30年のベテランさんが、具体的な内容は避けるが、飲み会でいろいろとアドバイスをしてくれたのだ。

自分はそれを時折うなずきながら聞いていたのだが、こうまで自分に活かせないアドバイスばかりくれるとは、と考えていた。

自分は、なぜこうまでベテランさんの話を聞き入れられないのかと、考察した。

飲み会が終わってからも、考察を続けた。

 

出た結論。

なんのことはない、自分と相手では「仕事に対する心構え」が違っていたのだ。

ベテランさんは、仕事は自己表現であり、限界を超えて挑むものと考えているようだったが、自分にとって仕事はあくまで生活するためのもので、タスクには真剣に向き合うが自己を高めるためのものではない。

そんな二人が会話していても、別の種族同士がただ一方的にお互いの話をしつづける、会話のデッドボールにしかならない。

どちらも正しいし、どちらも間違っていない。

そんなわけで、自分と考えの違う人からアドバイスをもらっても自分に活かせるわけがないのだ。

 

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さらに注意したいのは、親切という欺瞞をかぶり、他人が考えを押しつけて、他者(あなた)をコントロールしようとしている可能性だ。

人間は、自分の考えが正しいと思い、他人の考えには懐疑的になるという、NIH(Not Invented Here)症候群にかかりやすい。

NIH症候群 - Wikipedia

 

この症候群は、「自分のあずかり知らぬところで生まれたものを信じようとしない」という思考の誤りの一種で、これにかかると他人の意見を否定し、自分の意見に固執し続ける。

さらに恐ろしいのが、自分の意見が他人にも有益であると信じ込んでしまうところだ。

いわゆる、「正義は我にあり、他人は愚かなり」状態に陥りやすい。

もちろん私もかかっている可能性があるので、記事の冒頭には注意書きを加えておいた。

(再度書くが、この記事がくだらないと思えたのならこのまま直帰したほうがいい)

 

自分の直感で言わせてもらうと、年齢が上の人や、多弁な人(聞き手より話し手を好む人)はNIH症候群の疑いが強い。

よって、あなたが誰かから一方的にこうしたらいい、ああしたらいい、という話をされたときには、疑いの目で見た方がいい。

 

では、役に立つ助言とくだらぬ助言の見極めはどうするのか?

これはもう、自分の好き嫌いや直感に頼っていいと私は考える。

自己啓発の書籍を読んでいるときに「良さそうなこと書いてあるけど、読みにくいな」と考え、そっ閉じしたことはないだろうか?

その直感は大事にしてよい。

読んでいるときの自分がなんとなく嫌だと感じたのなら、それは自分の趣味思考に合わないと脳が判定したということだ。

他人と話しているときも同じ。

この人とは合わないと感じたのなら、その会話の内容や得た情報はすべて忘れて捨ててしまえば良い。

 

私は今後、居酒屋でやるような、くだらない雑談ばかりで時間を浪費するだけの会食には参加しないことに決めた。

それで仕事に支障が出るような職場なら、さっさと抜けて次へ行こうと思う。

 

【ミニマリズム】悪い癖を治すために腕時計から離れることにした

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今回の記事では、私が腕時計を手放すまでの経緯と、その後の顛末について記そうと思う。

 

およそ一か月前の話になるが、お試しのつもりで腕時計を着けないことにしてみた。

理由というか、きっかけには2つある。

どちらも、ミニマリズムとは関係ないことだ。

 

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きっかけその1。

左腕が腱鞘炎になってしまい、サポーターを着けないと仕事しにくくなってしまったこと。

Windowsパソコンでウインドウ切り替え(Alt+Tab)の操作を頻繁に行うのだが、その負荷の蓄積により、左手の筋が痛むようになった。

やむなくサポーターを着けることにしたが、そうすると左腕にある腕時計が邪魔だった。

ベルトを緩めてサポーターの上から巻いたりしたが、試行錯誤するうちに腕時計を着けていない方がラクだと気づいた。

 

結果として、過去数年間続いていた習慣(入浴時以外腕時計を着ける)を断つことになったわけだが、それは一時的で、腱鞘炎の症状が軽くなってからはまた着けるようになっていた。

しかし、一旦距離を置いたためか、以前は気づかなかった自分のクセに気づいてしまった。

それが腕時計を着けなくなったもうひとつのきっかけである。

 

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きっかけその2。

腕時計を着けていると、無意味に時間を確認する悪癖に気づいてしまい、さらに、確認したはずの時間をすぐに忘れてしまう自分に気づいてしまった。

わかる人にはわかる話だが、腕時計を着けているとチラリと目をやるだけで時間を確認した気になってしまうことがある。

数秒後になって、「あれ、今何時だったっけ」となり、また時計を確認する状況が結構な頻度で起こっていた。

さすがにこの癖は治したいと思い、荒療治というほどではないが、簡単に時間を確認できないようにする方法を考えることになった。

 

スマホとの単純接触を減らすデジタルミニマリズムは継続中だったので、スマホで時刻確認する方法は却下した。

いっそのこと腕時計を着けず、街角や職場の時計で時刻確認するスタイルへ切り替えようかと考えたが、やはり手元にアナログ時計が欲しいという気持ちは拭えない。

デジタル時計はただ現時刻を映しているだけだが、アナログ時計には行動時間の見積もりをしやすくするというメリットがあるのだ。

だけど、腕時計は簡単に時刻確認できてしまうから、このままだと悪癖を治すことができない。

……さてどうしようか?

 

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悩んだ末、悪癖の暫定的改善対策として、上の写真のような「懐中時計」を身に着けることにした。

懐中時計といったら「蓋で風防(ガラス部分)を保護し、チェーンで服に固定する」のがデフォルトらしいが、私の物は風防はむき出し、金属の音が耳障りなので紐で代用している。

小型の簡易的な構造の物なので非常に安価(約¥2,000)で、もはや懐中時計と呼んでよいのか疑問になるレベルだが、しっくりくるので懐中時計と私は呼んでいる。

 

この時計を普段は右足のポケットに忍ばせているわけだが、紐を引っ張れば取り出せるので、使用感としてはそう悪くない。

未だに悪癖は治っていないが、時刻を確認するアクションの回数が減っているので、少しずつ良い方向に向かっているのではないだろうか。

 

 

【ミニマリズム】「物選びと生き方は通ずる」と気づきを得たり

youtu.be

 

最近、Youtubeでローランド氏の動画を見ている。

中でも白眉といえるのは、上記のヒカキン氏のお宅訪問&片付けの動画だ。

 

ミニマリストで有名なローランド氏と、仕事(動画投稿)で物が際限なく増えていくヒカキン氏のコントラストという要素だけでも面白いのに、容赦なく断捨離していく元№1ホスト現事業家、対して物を捨てることに少しずつ疲労していくYoutuberの親分のかけあいがたまらない。

動画は前後編に分かれているので、時間があるときに見て、ぜひ楽しんでいただきたい。

 

ローランド氏はそのミニマリストぶり、特にデジタルとの付き合い方には学ぶことばかりで、ついつい動画を続けてみてしまう。

そうしているうちに、彼の物との付き合い方、物の選び方を知り、自分とは異なるタイプのミニマリストなのだな、と理解した。

 

自分の物選びの基準のひとつに、汎用性と応用性、すなわち使いやすさや入手しやすさを重視するというものがある。

具体的に挙げると、ボールペンを選ぶときには、軽くてスラスラ書きやすいこと、かつ替え芯が入手しやすいこと、さらにペン本体を使いつぶしてしまっても同じものが手に入ること、などを優先して考えてしまう。

デザインが優れていることや高価であることは、二の次三の次である。

 

対してローランド氏は、自分が愛せるアイテムであるかを見極めて、最高の一品を持つようにしている。

かといって、なんでもかんでも高価な品を選んでいるわけではなく、比較的安価な無印良品を愛用したりと、あくまで自分の心が動くかどうかを基準にしているようだ。

以下の動画を見てもらえばわかるが、気に入ったデザインのペンを大事に扱っている。

その姿を見ていて、彼と私は物選びに対する考え方が違うと悟った。

 

youtu.be

 

そして、記事タイトルにあるように、そこからひとつ気づきを得た。

物選びの方向性と、自己プロデュースの方向性は、通ずるものがあるのかもしれないということだ。

 

kidomeguru.hatenablog.com

 

過去の記事にも書いているように、私は「ちょっと性能のいい量産型」になりたい。

替えのきく存在ではあるが、その中でも頭一つ抜きんでた個体になろうとアレコレと手を尽くしている。

物えらびの際に汎用性と応用性を重視すると書いたが、生き方にもその傾向がみられるのだ。

正しくは生き方が物選びに反映されるのかもしれないが、それを論じるのはまたの機会にしよう。

 

話の流れから、またもやローランド氏を例に挙げるのだが、彼は「替えのきかないパイロット専用機」のような生き方をしている、と私は感じた。

俺か、俺以外か」は彼のキャッチコピーだが、これに対する私独自の解釈は、「俺は俺ひとりだから、他の誰にも俺の代わりはできない」だ。

ペンひとつにまで特別なこだわりを見せるように、彼は人間としても特別な存在であるために、自分に合った生き方を自分で選んでいる。

 

などと書いてはいるが、動画を見ただけでは人間一人のことなど0.01%も理解できるとは思えないので、ローランド氏が私の抱いた印象通りの人間かどうかはわからない。

ただ、動画で見た彼の生き方と、私の生き方は、同じ人間でも全く異なるのだな、と言いたいだけだ。

 

「誰一人として同じ人間はいない」というように、実際に誰一人同じ人生を歩んでいる人はいないわけだが、しかし人間社会に生きる我々、特に日本人は周囲に合わせて生きようとしがちだ。

テレビ番組で「この食品が健康に良い」と紹介されればそれを買い求めたり、本当は好きな服装をしたいのに流行しているファッションに流されたり、本当は家に帰りたいのにみんなが行くから仕方なく飲み会に行ってみたり。

それらが全く悪いとは言わないが、みんなもうちょっとだけ独自性を表に出してもいいんじゃないかな、そしてもっと独自性と多様性を許容できる社会になってくれてもいいんじゃないかな、とマイノリティな私は思ってしまうのだ。

 

【自制心強化】肌がかゆくなったら一旦衝動を抑えて痒みを観察しよう

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2021年8月初旬、夏真っ盛り。

散歩していれば、前方から飛んできたセミに体当たりされる季節である(実体験)。

 

1年を1日に置き換えると、夏は昼間だと言われている。

よって、この季節に自然環境が活発になるのも、まあ理解できる話だ。

セミをはじめ、多様な虫たちも例に漏れない。

 

蚊に刺されるのは夏の風物詩のひとつ

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夏に現れる代表的な虫を挙げると、人によって意見は分かれるが、その中に『蚊』がノミネートされるのはほぼ間違いない。

なぜなら、日本では蚊は夏にあらわれる生物だから。

さらに、奴らに刺されると肌が痒くなり、その不快感の記憶と夏という季節がつながっているからだ。

 

蚊は繁殖を目的に吸血するが、その際に蚊の唾液が体内に入り、かゆみを引き起こすとされている。

カ - Wikipedia

 

この痒みがなかなか厄介で、人間の意識や注意力を少なからず奪う。

夏は好きでも、蚊に刺されることまで好きになれる人は少数派だろう。

 

虫よけスプレーを使って多少被害を減らせるとはいえ、それは根本的解決にはならない。

根本的解決を図るなら蚊を地球上から全滅させることになるだろうが、そんなことは現実的ではないし、もしできたとしてもより厄介な虫を生み出すきっかけになりかねないので、今後とも蚊と人間は共存してゆくことになるだろう。

 

なぜ肌をかくとまたかきたくなるのか

「蚊に刺されてもかいてはいけない、より痒くなる」というのは定説だ。

実際そのとおりで、ボリボリガリガリと皮膚をかくと、よりかゆみが強くなり、かゆみを覚える皮膚の箇所が増えていく。

よって、定説に従い、肌をかかないのが正解なわけだが、ここで私は疑問に感じた。

 

なぜ肌が痒くなると、患部をかきたい衝動に駆られてしまうのだろう?

 

蚊に刺されて肌が痒くなるのは、生体反応だからということで理解できる。

だが、かきたくてかきたくてしょうがない気持ちが芽生えてしまうのはなぜなのか。

 

結論から述べてしまうと、肌をかく行為に快感を覚えてしまっているから、ということになる。

 

肌をかく行為に快感を覚える脳内メカニズム

人がかゆみを覚えた時、その患部をかくと快感が生じ、続いて脳内の報酬系と呼ばれるシステムが働く。

報酬系は人間にあらかじめ備わっている機能で、例えばゲームをクリアしたときや、食べ物を摂取した時など、何らかの行動をきっかけにドーパミンを分泌する。

このドーパミンは脳内快楽物質とも呼ばれる脳内ホルモンで、人間はドーパミンから得られる快楽を得るために行動している、と言い切ってもあながち間違っていない。

 

ドーパミンは、人間を目標達成へ向かわせるための強力な後押しをしてくれるが、時に危険な方向に作用することがある。

いわゆる依存症がそれだ。

 

報酬系と依存症

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飲酒を例に挙げてみると、まず酒を飲むことで脳内にドーパミンが分泌され、脳内に快楽の刺激が生じる。

すると、脳内で飲酒=快楽(気持ち良いこと)という紐づけが行われ、自動的に報酬系にその紐づけが記憶され、以降は飲酒するたびに報酬系が働くようになる。

それだけなら良いといえるが、問題はここから。

 

快楽を得続けるために飲酒する量と時間が増えていくにつれて、過剰な快楽刺激から神経を保護するために、脳内のドーパミン受容体という部位の働きが鈍くなる。

受容体が鈍ると、ドーパミンから得られる快楽は減ってしまい、過去と同じ量では物足りなくなり、飲酒量を増やさなければ満足できなくなる。

後は、「飲酒量が増える」⇒「ドーパミンが過剰分泌」⇒「ドーパミン受容体が減る」⇒「飲酒量が増える」・・・という負のループが続いていく。

これが、人が依存症になっていく仕組みとされている。

 

報酬系ドーパミンも、人間のシステムとして備わっているものなのでその働き自体を抑制することは現実的ではない。

人ができる対策としては、物質や行為といった依存対象と報酬系の紐づけをさせない、というやり方が現実的だろう。

 

肌をかく行為と報酬系を紐づけない方法

肌が痒くなってもかかなければ、ドーパミンは放出されないし、快楽の記憶が報酬系に刻まれることもない。それはわかっているけれど、やっぱり痒い……

そんな時に、私がとっている対策を紹介しよう。

やり方はシンプルであるが、多分カンタンではないので、練習が必要と思われる。

 

Step1.痒みを感じてもすぐに手を動かさない

Step2.痒みのある患部の位置をなるべく正確に捉える

Step3.患部の皮膚感覚に意識を向ける

Step4.痒みがおさまるまで待つ

 

一番難しいのはStep1だろうと私は思う。

なぜなら、痒くなったら瞬間的に手が患部へ向かって動き出すクセがついているからだ。

そこさえクリアすれば、あとはひたすら痒みと向き合うだけだ。

 

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痒みと向き合うときのコツは、我慢するのではなく実況すること。

「なんとなく腕がかゆいな。あ、よく見たら蚊に刺されたような膨らみがあるぞ。ああ、かゆみが肘と指のあたりまで広がってる気がする。ここからどのあたりまで広がっていくか観察しよう」、といった具合に。

痒みを抑えることは衝動性を抑えること、つまり自制心強化にもつながることなので、メンタルトレーニングの一環としてとらえて、実践してみてはいかがだろう。

 

【メンタル改善】ジレンマの生じた瞬間に気づいて感情の暴走をコントロールせよ

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ロルフ・ドベリ著『Think Smart』を読んで、「自分にも当てはまるな」と気づくところがあったので一つ記事にしてみようと思い立った。

 

www.sunmark.co.jp

 

この著者の本には思考法がいろいろと紹介されているので、気づかされることが多い。

今回気づいたのは、「認知的不協和」と「思考・思い込みへの執着」のつながりだ。

 

認知的不協和とは、自己の認知とは相反するものを認知したときに生じる不快感のことを指す。

それとセットになって、人間は相反する認知そのものを修正したり、自分の考えや行動を修正したりする。

認知的不協和 - Wikipedia

 

難しいうえに専門外の心理学は置いておくとして、ここでは私が起こしている認知的不協和とそれに対する反応を紹介する。

 

私が日ごろ起こしている認知的不協和は、「自分に課しているルール(マイルール)を破っている他人」を見た時の不快感だ。

たとえば、「歩きタバコはしない」「歩きスマホはしない」「ゴミのポイ捨て禁止」などがそうだ。

 

マイルールを自分が守ることに何ら苦はないのだが、他人がマイルールを破っているところを目撃すると、激しい不快感に囚われてしまう。

昔に比べればだいぶ減ったが、目の前でやられると、未だに不快感に襲われるときがある。

 

この不快感を解消しようとここ数年挑んでいるが、目立った成果は無い。

「厳しすぎ」「深く考えすぎだよ」などと短絡的かつ日和った思考法で解決できるとはハナから考えていなかったので、自分一人では行き詰っていたところ、『Think Smart』を読んでようやく解決策らしきものに近づいた。

 

まずは、私が不快感を覚える理由を挙げていこう。

前提として「自分はマイルールを守っている」という認知がある。

①自分はマイルールを守っている

 

対して、他人がマイルールを破っているところに遭遇すると、「他人はマイルールを守っていない」という認知が生まれる(他人が自分のルールを守るわけがないのだが、それはそれとして)。

②他人はマイルールを守っていない

 

すると、①と②のギャップが生まれ、ここで認知的不協和による不快感が生じる。

さらに、このギャップ埋めるために認知・思考の修正が加わっていく。例として以下の③や④だ。

③他人が自分のルールを知るわけがない

④自分のルールが間違っている

 

ここまでいくと、不快感にすっかり囚われ、思考の泥沼にどっぷりハマり、冷静な思考などあったものではない。

 

これらに対する処方箋としては、「認知的不協和(ジレンマ)の生じた瞬間に気づくこと」が最良だと自分は考える。

過去の記事(↓)で少し触れているマインドフルネスは、自分の思考に気づくことで自己観察能力を高めるための取り組みだ。

【自制心強化】たとえ一人であってもオナラはトイレで出すことを心掛けよ - 木戸じゅん。

 

人間の感情とは不思議なもので、不快感の原因がぼんやりしていると不快なままだが、原因が明らかなものに対しては不快感がいくらか解消される。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花(幽霊と思ったがよく観察したら枯れ尾花だった)」のようなもので、つまるところ、正しく把握できているものに対しては不快な感情が持続しにくいのだ。

これはおそらく遺伝子に刻み込まれたものだと思われるので、その前提を踏まえてできることを考えると、やはり「ジレンマ(を起こしていること)に気づく」というのが、不快感への対処法となる。

 

解決策の方針は立ったので、次は具体的な取り組みだが、これは「マインドフルネス瞑想で思考に気づくクセを付ける」になる。

たとえば、歩きタバコをしている人を見たとして、すぐさま不快感を覚えるのではなく、それより先に「ああ、認知的不協和(ジレンマ)だなコレは」と気づけるよう、思考のクセを付けることが自分の課題である。

 

マイルールを作るのも思い込みがあるのも、人間である以上しょうがないが、それがあるせいで他人に不快感を覚えたりするのは、いわゆる執着だ。それも要らない種類の。

自分が他人に不快感を抱くと、ほぼ必ず怒りをベースにブレンドされた感情が沸き起こってしまう。

ここでもし衝動的な行動をとってしまうなんてことがあったら、誰にとっても良いことはない。

 

それならば、たとえ他人に問題があったとしても、思考法を駆使し、自分が生きやすいように不快にならないように日々を送っていくのが、理性的な人間として妥当な選択だと私は思っている。

 

 

【自制心強化】たとえ一人であってもオナラはトイレで出すことを心掛けよ

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タイトルからしてちょっと汚いが、内容自体は当ブログの中でもトップクラスに真面目な記事である。

 

私は確固たる意志と熱意を持って、「トイレ以外でオナラをしない」を制約のひとつとして、自身に課している。

屋内屋外を問わず、周囲に人がいようがいまいが、その他のどのような状況であろうとこの制約を破ってはならない。

なぜこのような制約を課すかというと、「自制心を強化するため」である。

 

自制心を強化するマインドフルネス瞑想

私がマインドフルネス瞑想を始めてから復調していったことは過去の記事に書いたとおりである。

ひさしぶりの記事投稿。休止期間に訪れた自身の内面変化について綴っていく - 木戸じゅん。

 

このマインドフルネス瞑想というのは、細かい部分を省略してエッセンスのみ説明すると、「自己観察能力を高める」ための取り組みだ。

GoogleAppleマッキンゼーといった有名企業が、社員のメンタルケアのために導入しているわけだが、マインドフルネス瞑想で自己観察能力を高めることに、企業側はそれだけの価値を見出している。

kanakoto.com

 

マインドフルネス瞑想の効果について少しだけ解説しよう。


人間の心には衝動性が備わっているが、マインドフルネス瞑想で自己観察能力が身につくと、その衝動をコントロールしやすくなる。

いや、トレーニングしたところで完全にコントロールできるシロモノではないのだが、能力を身に着ける前と後では、衝動的言動をとる機会が大きく減る。

その理由としては、脳内の扁桃体(衝動性に深く関連する部位)の密度が下がることが関連している。

 

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瞑想で自己観察を続けると、ストレスの元に気づく機会を得る。

不思議なことに、人間の脳はストレスの原因を具体的にしてやることで、ストレスを受けにくくなる。すなわちストレス耐性が上がる。

扁桃体は強いストレスを受けることで活発になるので、ストレスが減ると非活性化し、次第に密度が低下していく、と考えられる。

 

カンタンに言うと、扁桃体の密度が下がる⇒衝動性が低下する⇒衝動に支配される機会が減少する、ということだ。

 

なぜ自制心を高める必要があるのか

人間の精神には、暴れ狂う獣が棲んでいる。

その獣こそが衝動性であり、それを鎮めるためには強い自制心を持ってコントロールする必要がある。

 

なぜ自制心を高めて衝動性を抑える必要があるのか、なぜ衝動に身を任せてはいけないのか?

それは、冷静な思考を維持したり、学習記憶や創造性の発揮といった高度なタスクをこなすためには、衝動性が邪魔になるからだ。

 

突然だが、想像してみてほしい。

休日、あなたが自室で読書しようと本を手に取ったときに、ふとラーメンのことが頭をよぎった。

時刻は正午過ぎ。最近は忙しくて落ち着いて食事する時間もとれなかったから、今日ぐらいは腹いっぱいラーメンを食べてもいいだろうと自分を納得させ、外出する。

大盛のラーメンとギョーザを平らげて満腹になったあなたは、自宅に帰るなりソファに横たわりスマホをいじりだし、しばらくすると抗いがたい睡魔の誘惑に負け、まぶたを閉じる。

机の上にある本は、その日ページをめくられることもなくじっと佇んだまま、一日を終えた……

 

上記は衝動的思考によって、読書という行為が阻害された例である。

別にラーメンを食べるのが悪いと言っているわけではない。

ふと浮かんだラーメンのことで頭がいっぱいになってしまい、読書のことを忘れてしまっていることが問題なのだ。

 

衝動性が強すぎると、家事をはじめとした日常的活動や、読書や勉強や運動といった自己投資に集中することが難しくなってしまう。

だから、自制心を鍛えておく必要があるのだ。

 

自制心強化のために衝動的な欲求をこらえる

自制心を鍛えるためにはどうすればよいか。

マインドフルネス瞑想をはじめるのがベストだが、それ以外となると「意識的に衝動や欲求を抑える」ことを習慣にする方法が挙げられる。

私の場合は、「トイレ以外でオナラをしない」がそれだ(他にもあるが今回はこれにフォーカスする)。

 

人前で放屁しないことはマナーとして身についているので、あとはそれを自分一人のときにも適用するだけだから、始めやすかった。

他の狙いとしては、一人で過ごすときにもある程度の緊張感を持たせてやることで、読書や筋トレやブログ記事投稿に集中しやすくなると思ったからだ。

 

食欲をはじめとした三大欲求は、その衝動もとてつもない。

付け焼刃のメソッドでそれらを押さえつけようとしたところで、手痛い反撃を食らってしまうだろう。

それよりかは、放屁する場所を制限したり、くしゃみを思い切りぶっぱなしたくなるのをこらえたり、歩きスマホする人に怒りが沸いても目を背けたり、といった取り組みから始めるのが賢明だと思っている。

 

【寄付のススメ】難しく考えず水を恵む程度の軽い気持ちで寄付しよう

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この記事はカジュアルな寄付のススメである。

 

先日、ブログの記事を書くためにWikipediaを閲覧したとき、「寄付のお願い」が表示された。

そして、ちょっとだけ考えてから、寄付することに決めた。

 

以下が寄付の後で送られてきたメール。

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私が寄付先の団体を決めるときは、ざっくりとだが以下のような基準に照らし合わせて判断している。

インフラストラクチャー(水、自然環境など)の整備に取り組んでいる

・教育水準を上げるための活動をしている

・逼迫した状況の人々を支援している

発展途上国での活動がメインである

・認定NPO法人である

 

これらのうち、2つ以上の条件に当てはまれば寄付を検討する。

 

発展途上国の支援を条件に挙げている理由は、単純に日本は豊かで支援の必要性が薄いからだ。

日本が豊かでないという人は、どれだけ理想が高いのだか知らないが、一度国外に出て生活してみることをおススメする。私はフィリピンで半年ぐらい生活したが、あそこはアジアの中でも比較的発展しているといわれる国でありながら、国民の生活水準はインターネットで得られる情報ほど高くなかった。

むしろ、低かった。

 

インフラの整備、特に水に関しては特に支援をあつくしたいところである。

日本の水事情は最高水準にある。日本の水道は飲用にも生活用水にも使えるが、他の先進国では水道水を生活用水にしか使えないところがある。だが、そもそも水道が引かれていない国や地域からすれば、ひねれば水の出てくる蛇口が自宅にあることすら自慢の種になるだろう。

インフラ(生活基盤)が整っているからこそ、人は安全に暮らせるし、健康な子供を育てることだってできるのだ。

 

最後の条件の「認定NPO法人」だが、これについては確定申告での「寄付金控除(超カンタンにいえば税金負担を減らせる)」が目的だが、日本で認定NPO法人として認められるためには一定の条件を満たさなければならないので、団体の信用度をはかる基準になる。

 

などといろいろ語ってきたが、最終的に決めるのは私の直感なので、上記の条件を満たしていなくても例外として寄付することがたまにある。

そのひとつが、先ほど紹介したWikipedia(運営はウィキメディア財団だ。

 

正直に言うと、寄付を募るバナーを見て、寄付を検討するどころかうっとおしいと感じてしまった。なぜかというと、生き残るために支援を欲する人々と比べて、彼らは豊かに感じられたからだ。

予想でしかないが、Wikipediaの運営に携わるスタッフの得ている報酬は、Wikipediaの持つネットへの影響力から考えて、私よりも何割か(ひょっとしたら数倍)上だろうと推測している。

そんな彼らに私が寄付する? 私より豊かな人々に対して?

 

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そんなことをしばらく考えていたのだが、ちょっとだけ考え方、というか視点を変えてみると、私がWikipediaに支援することにも意味はあると思えてきた。

 

突然だが、記事を読んでいるあなたへ質問だ。

この記事を書いている時点(2021年7月)では夏だが、部屋の外は炎天下で出歩くときは勇気と覚悟が必要なぐらいだ。少なくとも私にとってはそうだ。

セミの鳴き声が四方からジージーと聞こえ、まとわりつく湿気と汗が混じりあい肌をじっとり不快にさせ、アスファルトの路面から放たれる太陽の輻射熱があなたの靴をあぶる、そんな厳しい真夏の日。

この陽気の中で、喉がカラカラでいまにも熱中症で倒れそうな人と、タンクトップと短パンで走る瘦身のランナーがいたとする。

この二人があなたに向かって「お願いだから水を分けてくれませんか」と無心してきたとする。あなたは偶然ミネラルウオーターの入ったペットボトルを3本持っている。

さて、この時あなたならどうするか。

 

この質問にどう答えても、正解は無い。

世の中には正しい答えのない問題というものがあるが、これもその一種である。

水を与えないもよし、一人にだけ与えるもよし、二人ともに与えるもよし。

個人の価値基準にそって答えを出せばいい。

 

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もうお気づきだろうが、ここで恵む水=お金と置き換えてくれれば、私の意図は伝わると思う。

喉がカラカラの人は、生存のために寄付を必要する人で、痩身のランナーはWikipediaだ。

その二人に水を与えても、あなたの手元には1本のミネラルウォーター(お金)が残るから、しばらくは安心だ。

 

Wikipediaが寄付を募る理由は、彼らが走り続けているからだ。

それはネット上の中立的な百科事典という立ち位置を守り続けるためなのか、はたまた彼らと関連する事業の成功のためなのかは知らないが、私からすればWikipediaは「ある程度信頼できる情報源」の1つであり、この雑多な情報がひしめき合うインターネットでは貴重な存在なのだ。

彼らが広告を一切表示しない百科事典であり続けてくれるなら、私は彼らを応援してもいい。

そう思ったから、私はWikipediaに寄付することにした。

 

寄付を普段しない人には、「寄付という行為」に対する抵抗感が根付いているのだろうと思う。

偽善的とか、損した気持ちになるとか、あれやこれやと思考が浮かんでくるのだろう。

 

しかし、だ。

やってみるとわかるが、寄付という行為について難しく考える必要はない。

喉が渇いている誰かに対して、コップ一杯の水を差し出す程度の軽い気持ちでやってみればいい。

 

寄付は真なる善でも、偽りの善でもない。

単純に富を分け与える行為であり、それ以上でもそれ以下でもない。

 

立場を変えて、もしもあなたが恵まれる立場になったとき、恵んでくれた人に対して「偽善者」とののしりたくなるだろうか。

きっと、心からの感謝を伝えたくなるはずだ。

少なくとも、私だったらそうするだろう。